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【キリスト教入門講座】                                                                                                 2000.1.28

宗教改革の始まり(1)

 

テキスト ボックス:  入門講座の、第二番目のシリーズとして、宗教改革の始まりを取り上げていきます。ルターの宗教改革が行われるに至った背景を見ていくことが目的ですが、第一回目の今日は、国家宗教としてのキリスト教ということを考えていきます。
 キリスト教が国家宗教として存在していなければ、ルターの意見も一つの考え方として、賛否両論を巻き起こした、という程度に終わっていたでしょう。キリスト教が国家宗教であっただけに、一国の政治も含めた体制の流れを分断していく、大きな運動に発展していったのです。もちろん、マルチン・ルターという個性がなければ宗教改革もなかったのですが、そのルターに対する破門状を認めるか認めないかが国家のその後の歩みを決めるという意味で、国家の体制と複雑に結びついた中世キリスト教の存在がなくても、やはり宗教改革という歴史は描かれなかったのです。
 国家宗教としてのキリスト教という形態は、ローマ皇帝コンスタンティヌスがキリスト教をローマの国教にしたところから始まります。ローマ帝国から中世ヨーロッパへと受け継がれていった国教キリスト教を、今日から二回に分けて見ていきたいと思います。次々回からは、信仰の基本としての三位一体論、異端の考え方、パウロ主義の流れなどについて、順に考えていきます。

 

 

             コンスタンティヌス帝による公認と国教化。

コンスタンティヌス帝によるキリスト教の公認を語る時、その直前に当たるディオクレティアヌス帝によるキリスト教迫害から話をはじめなければならないでしょう。この迫害は、ローマ帝国史上最大規模の組織だった迫害で、ことに帝国の東部では、主だったキリスト教聖職者のほとんどが処刑されるという悲惨な現状が、ニコメディア、アンテオケ、アレキサンドリアなどの大都市では出現したといわれます。ディオクレティアヌス帝は、帝国の四分統治という方法を考え出した功労者で、皇帝を引退し最後は庶民として死にながら神に祭り上げられたという稀有な人格者でした。キリスト教の歴史家は、この皇帝を非難する事を避けて、東の副帝であったガレリウス帝の責任として迫害を描き出していますが、実際はこの皇帝の決断によって為されたからこその大迫害であったのです。

 さて、コンスタンティヌス帝の父、コンスタンティウスも西の副帝として、ガリア地方を治めていたのですが、表立ってディオクレティアヌス帝の政策に異を唱えはしなかったものの、彼の支配地での迫害は形だけの緩やかなものでした。その背景にはキリスト教に深い理解を示していた妻へレナと、キリスト教将校の多かったガリア軍団の存在があったのです。このヘレナとコンスタンティウスの間に生まれた一人息子が、ガイウス・フラウィウス・コンスタンティヌス、つまり後のコンスタンティヌス帝だったのです。コンスタンティウスは305年に西の正帝となり、翌306年には白血病で死亡する、この跡目を狙って、セウェルス、マクセンティウス、リキニウス、そしてコンスタンティヌスが争い、キリスト教徒の支持を強く受けたコンスタンティヌス帝が最後には帝国全体を再統一したのです。その意味で、この皇帝によるキリスト教公認は、功労のあった者たちに対する当然の報酬として約束されたもので、皇帝候補者の一人として、コンスタンティヌスが名乗りをあげたときから運命付けられていた事でしょう。しかし、さらに進んで、キリスト教をローマの国教にするということは、たとえそれが皇帝の個人的な信仰から来たものだとしても、まったく別の意味を持つことになりました。つまり、ギリシャ、ローマと続いてきたヘレニズム文化の後継者としてキリスト教を選んだということで、ここに、ローマ帝国、キリスト教双方が変化していく契機が織り込まれたのです

 

       ユスティヌス帝による最後の抵抗。

ユスティヌスは、コンスタンティウス1世のもう一人の妻、テオドラの息子ダルマティウスの子供で、コンスタンティヌス帝の娘へレナと結婚し、同帝のあとを継いだコンスタンティウス2世帝により、副帝として選ばれガリア地方の統治を任せられたのです。その後、2世帝との間の確執を乗り切り、コンスタンティヌス帝以来の統一ローマ皇帝になったのですが、363年メソポタミアを侵略中に、負傷し死亡しました。その治世は短かったのですが、ディオクレティアヌス帝、コンスタンティヌス帝を引き継ぐ名君としての実績と、文化人文章家としての実力を兼ね備えながら、時流に逆らい、ローマの伝統宗教を復活させようとして挫折した悲劇の皇帝でもありました。このユリアヌス帝の実力をしても変えられなかった歴史の流れとして、この時からキリスト教はローマ帝国全土にわたって認識されるようになります。その意味で、ユリアヌス帝の反発と挫折とが、ローマ帝国の国教としてのキリスト教の位置を不動のものとしたとも言えるのです。